ということについて、このスピーチの中でも、著名な憲法学者であり、かつ元最高裁判所裁判官である伊藤正己先生の言葉を引かれて、そこには、この原理的な意味での法の支配は日本国憲法の根底に脈打っており、我が憲法はこの原理が日本国民の信念と化することを期待していると言ってもよい、司法権に対して払われる尊敬と信頼、基本的人権の絶対的と言えるまでの保障、憲法の最高法規性の強調のごときは、その具体的な表れであろう、人の支配、権力
川田龍平
最高裁長官は、よろしいですか、法の支配、権力者ではない、法によってこの国を治めていく。法の支配においては、内閣法制局長官の方が、あえて言います、最高裁長官よりも私は大切な局面があると思います。なぜならば、違憲の戦争で自衛隊員や国民が死んでしまうのを体を張って止めるのが内閣法制局設置法に基づくあなたの使命なんです。
小西洋之
二つ目が、法の支配、権力を縛る一つの仕組みとして法の支配というのが重要であるということと、実は三つ目にアカウンタビリティーというものを挙げていらっしゃいます。
桜内文城
だとするならば、今度は、一般論として、国内の紛争当事者間で、一般に、その国の支配権力の獲得あるいは分離独立をめぐって争われる武力紛争、こういったものに関して、今回のものに当てられるという学説もあるわけでございまして、最終的には、終わってからでないと認定できないことかもしれません。
新藤義孝
本来、民主主義国家においては国民の人権が国の支配権力から守られることが基本であるにもかかわらず、公共の福祉を理由に国家権力が人権をゆがめるといったこのような動きに対して多くの国民が疑念を持っていることは、今国会の状況が端的に私は示しているというふうに思います。
このように、憲法の理念と国民の置かれている現状は大きく乖離しているというふうに言わざるを得ないと思います。
小泉親司
つまり、この話は、近代民主主義国家、フランスのフランス革命、アメリカの独立革命以来のルール・オブ・ロー、法の支配、権力と法というものについての考え方が逆さまになっているのですよ、これじゃ。つまり、行政機関は悪いことをしないというのは、国民はひょっとしたら悪いことをするかもわからぬから法律で決まりをつけて、法律を守らせて縛り上げていくんだ、これがその近代民主主義革命の前の時代の考え方だ。
仙谷由人
人の支配、権力の優位を否定する法の優位の思想が日本国民の血肉と化したときこそ、この憲法の真に実現されたときであり、それが理想とする立憲民主政の完成したときであると言ってもよい。
こうしたとらえ方は、独り伊藤氏にとどまらず、当時の多くの論者によって取られたところであります。
それでは、法治国家と法の支配とはどこが違うのでしょうか。
佐藤幸治
支配権力は、常に自己に対する敵対者を国に対する敵対者として多数の国民の目に映すわけであります。さらに、反対者を非国民あるいは国賊として葬るということがしばしば行われたわけであります。この場合、上から押しつけられた愛国とは、批判の封殺、不寛容、権威への盲従と同義となるわけであります。
山口二郎
立法権、すなわち最高の権威は、にわか仕立ての勝手気ままな法令によっては、支配の権力をその手におさめることはできない、国家がどんな形態であろうとも、支配権力は、思いつきの命令やあやふやな決定によってではなく、公に宣言され、世に受け入れられた法によって支配すべきである。この言葉に、総理と与党は耳を傾けていただきたい。(拍手)
反対する第三の理由は、最も重要な景気、経済対策に関してであります。
佐藤敬夫
○野呂田国務大臣 国際法上、内乱について統一した定義は存在しないわけでありますが、内乱が、一国の領域内における合法政府と反徒との間または反徒間における、その国の支配権力または分離独立をめぐって争われる武力紛争を指すものであれば、仮に当該内乱において、人を殺傷し、または物を破壊する行為が伴ったとしても、これは一国の国内問題にとどまる限りにおいては、この法案で言う国際的な武力紛争には当たらないわけでありますけれども
野呂田芳成
これら憂慮すべき政治状況発生の要因は、私たち野党であった者にもその責任の一端はあるといたしましても、主たるものは自民党の永年にわたる一党支配、権力支配がもたらしたものであり、特に政官財の癒着の構造による金権腐敗の不祥事件の連続発生に原因があることについては、今日明白であります。
堀込敬司
したがいまして、大臣からここで所見を伺っておきたいのは、今回さまざまな形での統合あるいは仕事の分野の整理というようなものが行われてまいりますが、とかくこの種のものをまとめると、一つのそこに支配権力というふうなものが生ずるという弊害が起きてはいけないというふうに思うわけでありまして、したがって、今後の単位組合の運営、さらに形成されるであろう連合会の運営についても、民主的な運営といいますか、この基本を外
志苫裕
ところが、議員としてはずっと田中角榮議員は健在であって、しかも、いろいろ世評によれば、目白の将軍というようなことを言われたりして、現実の政治に対して強大な支配権力をふるっておられる、これが現実の姿のようだ、こういうようにも見られるわけでありまして、そういうようなことでありますから、そういうことに対する国民の不信、政治に対する不信、国会は一体何をやっているのだという不信は、本当にほうはいとして全国津々浦々
広瀬秀吉
最後まで裁判で決着をつけるという気負いがそのまま日本の政治に対する支配権力、支配意欲となりまして、目白のやみ将軍と呼ばれるように、権力志向で日本の政治を汚染しているのじゃないでしょうか。
私は、田中元総理がどうしても最後まで裁判で決着をつけたい、クロシロをつけたいというならば、一般の民間人と同じように一審、二審と争うことはできると思います。
平林剛
しかし、事実は文部省がそうした指導をやって、ここにたくさん私も資料を持っておりますが、その多くの教科書記述の書きかえが行われた、こういう事実に立ったときに、いまの検定審議会にかける、あるいはまた教科書の検定を一年早める、あるいはまた広報でもってその間の教育の問題について現場に周知徹底させる、こうした異例の方法を一方で現在の教科書検定の制度というものをゆがめ、教育の国家支配、権力支配というふうなことにつながるような
本岡昭次
そういうような一方で、この国の支配権力の側にいらっしゃる方も展望があるわけですよ。
こういう社会的な条件の中で、いま私たちは、まさに手段を持つことができないでやめていかなければならないだろうと思われる、そういういわゆる公務員の皆さんの論議をしている。こういうことになるわけでありますから、その前提というものを抜きにしてはそこの話はならぬ。
和田静夫
それが、いま言ったように法律で決まったとか、あるいはそれと同じような一つの、何といいますか、法の支配、権力の支配というものがあったときには、これはもうしようがない。
片岡勝治
一般的にいままで論議されております中で質問者の共通して言っていることは、やはり年号というものは支配権力の及ぶ範囲で使われるものである、これは坂本さんもそういうようなことを言っているのじゃないですかね。そういうことを歴史が証明していると思うのです。元号の伝統というものは、何と申しましょうか、いま制度化して残さなくてはいかぬというふうな、そういう伝統でしょうかね。
八百板正
その発見した国は、発見してから相当の期間のうちに支配権力を設ける権利があるのだというふうに一応国際法上は説かれているのではないでしなうか。そうすると、これはよく新聞なんかでソ連の艦艇が、艦艇か舟艇かわかりませんが、その辺の調査をしているような記事を見ますと、これは日本国民たる者の一人としてなかなか穏やかではない。
日野市朗
宗教の教理が、時の支配権力や、国家組織と相容れない場合、又は当局の忌避に触れるが如き内容をもつときは邪教とせらる」、こういうように明確に言っております。
正森成二